古代・北辺の交流の要、「こしの国」の古墳を巡る。
古代遺跡の旅【第3回】
「こしの国」(越国)とは古志、古之とも書き、古代には、日本海沿岸の敦賀湾以北を総称する地域を指し、7世紀末に越前・越中・越後の3つの国に分かれたという。
今回は「こしの国」の中の、越後の国(現在の佐渡を除く新潟県)の古墳を巡り訪ねた。古代より、人、モノ、情報が行き来した重要な地点だった「こしの国」。その旅を記していきたい。
【ライターからひとこと】 この連載は、考古の世界への旅の先達、専門ナビゲーターとして、毎回、考古学の専門家に監修をお願いしています。今回の先達は、関西大学非常勤講師 今尾文昭先生です。文中に先生のコメントも登場しますのでお楽しみに…!
【新潟県内最古にして最大の古墳群へ】
■国指定史跡 観音平古墳群
観音平古墳群と隣接する天神堂古墳群は新潟県内最大規模の古墳群といわれている。今回訪れた観音平古墳群は、南葉山(なんばさん)東麓の尾根上と台地に、3世紀から5世紀にかけて築造された古墳群で、標高50〜100mの山の斜面に数多くの古墳が並んでいる。新潟県内では 標高100m以上の高地の古墳は見つかっておらず、県内では珍しい高地古墳といえるだろう。
その面積は約7万㎡、坪にして約21,500坪!広大な丘陵地帯に、現在、53基が残っている。内訳は前方後円墳が2基、円墳が51基。さらに弥生時代の集団墓地も見つかっている。この弥生墳丘墓では遺体を屈葬して土中に埋めているのだが、埋葬の仕方に身分差はなく、平等だったと考えられるという。しかし後期になると甕棺が現れ、さらに支石墓が現れ、埋葬方法に差異が生じはじめる。それはつまり、この頃から社会の中に身分差が生まれてきた可能性があるという。そして古墳時代へと時は移っていく。
現地のガイドさんに案内されて、駐車場から山へと入っていくと、なだらかな斜面が見えてくる。まさに登山道に入っていく感じだ。すぐにぽこぽこと“らしい”高まりがあちこちに見えている。「この辺りは円墳ばかりですが、一番上の尾根のところに前方後円墳があります」とガイドさん。
やはり…!庶民(といっても、古墳が築造できるには、クニの中の豪族の長や高官だが)は、麓のあたりの円墳を墓域とし、王者の墓は、麓から見上げるところ、そして、下界を見下ろすところにあるのだ。
木々に囲まれた山中を、ぽこぽこと続く古墳を横目に見ながら、ひたすら登っていく。「ここは何号墳、あちらは何号墳」とナンバーを確認しながら歩くのは楽しい。のだが、人間の習性だろうか、どうしてもコンプリートしたくなってしまう。じっくり回れば全て確認できるのかもしれないが、時間の都合もあって、今回は諦めることに。また次回、ゆったりしたスケジュールで訪れて、全ての古墳に会ってみたい。
そうこうするうちに視界が急に開けた。100m地点に近付いたのだろう。古墳群のもっとも奥、もっとも高い場所の斜面に、張り付いたように2基の前方後円墳が現れた。丘陵の上に、ちょっと窮屈そうに築造されている。が、確かにくびれがあって、前方後円墳だということがわかる。
手前が観音平4号墳、円墳の3号墳を挟んで、向こうに見えるのが観音平1号墳だ。4号墳に登り、一旦降りて、また1号墳に登る。そして振り向くと、おお、絶景が広がっている。平野のはるか遠くまで見渡す気持ちの良さ!この地を治めた人物なら、きっとこういう場所に自分の墓を定めたくなったはずだ。
正しく、ここは、「こしの国」の王(首長)の墓だと感じる。
「丘陵の上に築造されているので、前方後円墳ではありますが、前方部が正円ではなく、偏円(へんえん)で少しいびつな形をしているのがわかります。地元のご案内の方は、これは纏向型(まきむくがた)の前方後円墳じゃないかとおっしゃっていましたが、元々の築造場所が狭いので、工法的にそうなったのか、纏向型の影響なのか検討が必要ですね」(今尾先生談)
ガイドさんによると、1号墳は、前方後円墳ではあるけれど、珍しい帆立貝形だという。墳丘長約は26.8m、後円部と前方部の高低差は約2.7mで、前方部がぐんと低くなっている。この特徴から、古墳時代前期の、さらに初頭(3世紀後半)に築造された可能性があるそうだ。すぐ隣の4号墳は、全長約33.6mの前方後円墳で、後円部と前方部の高低差は約1.6m。後円部がいびつな偏円(楕円形)である点や前方部が小さくなっている点が、1号墳と共通している。
この地の歴史を少し遡ってみたい。観音平古墳群の近くに、斐太遺跡群(ひだいせきぐん)という弥生時代後期後半(3世紀)に存在した集落遺跡(国指定史跡)がある。100,000㎡を超える低い丘陵地に200軒を上回る竪穴建物跡が残る大規模な遺跡だ。
弥生時代後期後半は中国の史書に「倭国大乱」と記された時期は、日本国内が戦乱にあったと考えられている。この地の人々は、戦乱に備えるため、高地に集落を作って暮らしていた。そして戦乱の時代が収まると、人々はまた平野部に暮らすようになる。そして、彼らの居留地だった地域の首長の墓域として使われるようになった。その一つが観音平古墳群といわれている。
山上の地は、山の神々と共に、自分たちのリーダーの霊を祀る聖地となっていったのだろうか。
「地域の首長墓が山の頂上にあるということは、誰が見ても下から見上げる位置に墓があり、一般の人々との隔絶性を獲得したといえます。これは、弥生時代の初めには明確ではなかった身分差の証であり、首長がトップに君臨して各地域治めるという社会の図式が、古墳時代に確立する過程を今に伝えていると思います。しかも時期的に、近畿中部とあまり時間差がなく、ほぼ同時期にそういった社会システムが現れてきていること、おそらく近畿中部との間に、人と物と情報の強力なネットワークが、ここ“こしの国”にもあったのだと思います」(今尾先生談)
観音平古墳群は、最初、山頂部に前方後円墳が築造され、それが次第に麓にむけて墓域が広がっていった。特に2基本の前方後円墳の墳頂は平らに整地されていて、おそらく祭祀が行われていたようだ。その真ん中に墓墳が掘られ、遺体は木棺直葬にされていたという。5世紀ごろまではその様式が続き、その後、6世紀になると横穴式古墳が取り入れられて、7世紀にかけて麓から平地にかけて円墳が続々と築造されていった。
ありがたいことに、観音平古墳群については後世に滅失したものはほとんどなく、盗掘の痕をもつものが1基、開墾などで削平された箇所が1~2箇所存在する程度に留まっているそうだ。
山中に築造されたのも幸いしたのかもしれないけれど、リアルに古墳を見て、登って、体感できるというのは、本当に幸せなことだ。「こしの国」の首長たちの奥津城は、いつまでも平和に、この姿のまま、この地に留まっていてほしい。
早春には古墳群の一面にカタクリの花が咲き乱れて、紫の絨毯を敷き詰めたようになるという。ぜひその頃にゆっくりと再訪してみたいと思う。